2010年11月03日

068:「人生のフィジカルパンチ」

 大分、ご無沙汰しておりました。個人的にいろいろ忙しくしていたことと、自分の心がこの数年はかなり求心的な方向へ傾きつつあり、特に今年に入ってからはますますその傾向に拍車がかかっていたため、外側への表現が億劫になっていたこともあります。具体的には、いつの頃からか、おそらく20数年前に取り付かれた一大疑問「生とは?」
「死とは?」「人生とは?」ということへの考究です。これに対しての明確な回答を得たわけではありませんが、その問いに捕まって、10年弱を経てようやくある方向への落ち着きを得て、地に足のついた生活ができるようになりましたが、それでもこの問いは常に念頭を離れることはなかったように思います。もちろん何かに熱中しているときは一時的に忘れています。しかし、それが過ぎ去り、落ちついてくると常に考えることはそういったことです。実は、今年の夏にもこの話題について書き始めたのです。個人的には、6月、7月は父、母の命日が続くため、「死」ということに自然と心が向き合ってしまう季節でありましたし、今年はちょうど韓国俳優のパク・ヨンハさんの自殺のニュース流れました。嫁さんと一緒に韓流ブームに乗ったのはやはり「冬ソナ」でした。この名作は数回見ました。主人公の恋敵を熱演するパク・ヨンハさんは私の中でも馴染みの俳優さんになっていましたので、そのニュースを聞いたときは少なからず衝撃でした。「自殺」ということについての是非をここで論じるつもりはありません。その選択に至るまでの過程は結局その人の人生を歩んでみなければわからないことだからです。しかし、少なくとも私の今までの人生経験からは「簡単に結論を急ぐことはないかもしれないな」とは言えます。「死」と呼ばれる現象は誰にでも必ずやってきます。それまでに「生」ある限りは生きて何かを経験するというのも貴重な選択だと思えるからです。このような考えに至った経過や「生」「死」という問いについてどのように考えているかということは、夏に書き始めた時もそうですが、結局これらを語ろうとすればするほど内容がプライベートな方向に入ってしまい、分かち合えるような内容にならないことに気付いて止めた経緯があり、今もそれは同じですので、深入りはしません。個人個人がそれぞれに考え、それぞれの答えに従って生きていく他はないからです。

 さて、相変わらず長い前置きから開始した今回のトピックは以下のことです。
 人生経験とはまさに変化の連続であり、上記の如く、求心的な方向に心が彷徨っていたとたんにガツンと現実に引き戻されるような出来事が起こりました。先週の土曜日(10/30)の夜の出来事でした。1階で騒がしくしている子供達にそろそろ歯磨きを促して、寝かせようと思っていた矢先に何やら泣き声と妻の「折れた〜っ!!」という声が耳に飛び込んできました。急いで下へ行ってみると長男の左前腕部の一部があらぬ方向で曲がり、妻がそれを両手で支えていて、余程痛いのか、苦悶様表情で泣いているといった状況でした。骨折は明らかでした。詳しいことは解りませんが、何やらふざけているうちにつまずいて床に手をついた際にやってしまったようでした。さぁ、こうなると「生」「死」どころではありません。現実に行動しなければならない状況へ投げ込まれ、一連のやるべき行動に従いました。つまり、患部を冷やす必要があったので、買い置きしていた冷えピタを貼り、添え木を探してきて、腕に添えタオルで固定し、夜に診てもらえる病院を探し、連絡をつけてもらい、車で直行しました。私と負傷した子どもだけでは何かあったときに動きがとれなくなるので、妻にも同行してもらいました。すると下の子ども二人では留守番はできませんので、当然一緒に連れていきました。一番下の子はすでに寝ていたのですが、起こして車に乗せ、家族総出で出発しました。診てもらった病院でのレントゲンにて判明したことですが、左前腕部で手首からすこし離れた場所の骨折、しかも橈骨および尺骨ともにきれいに折れていました。きちんと治療するにはやはり手術が必要だとのことでした。その時は臨時なのでそのまま固定してもらい、家から近くの病院を紹介してもらって帰りました。固定されてからは、痛みも若干落ちついてきて、時々痛み止めを服用するだけで、なんとか過ごしていました。日曜日もそのままの状態で過ごし、月曜日に受診し、翌日の火曜日に手術と決まりました。当日の手術前には痛みはそれなりに落ちついていましたが、手術は整復およびワイヤーを挿入して固定するというものでしたので、術後に麻酔が切れてきた時には痛みで苦しがっていました。これも坐薬でやり過ごし、翌日には痛みも軽快していました。結局2日間の入院と手術自体も病室から出て、戻ってくるまでに約1時間程度でした。負傷してからは約5日間でしたが、嵐にでもあったような出来事でした。

 今は、子どもも退院してきて、三角巾をしていますが、笑顔も戻っています。
人生何が嫌かといって、親としては、子どもが何らかのことで苦しんでいる姿を見るのは本当につらいものです。子どもの経験を親が代わることはできません。いきなりの変化として訪れた事態でしたが、なんとか大事にならずに過ぎ去った感があります。
不幸中の幸いという言葉がありますが、この場合も骨折は足ではなく手だったので、動き回ることができますし、利き手ではない方の左腕でしたし、骨折部位も関節部分ではなかったので、後遺症の心配もそれほど気にしなくていいようです。また、日曜日に妻の両親が来てくれて、下の子供達の世話をしてもらいました。子供達も思わず、おじいちゃんとおばあちゃんと過ごすことができ、楽しかったようです。

 というわけで、「生」というものは、こちらの思惑はどうあれ、いつの間にか流れ来たりて、流れ去っていきます。今現在の境涯にてそれを受け止め、必要と思われることを淡々と処していくのみです。

(遠田弘一)
posted by ..... at 17:49| Topics