2月に入ってしまった今頃になって恐縮ですが、ご挨拶を忘れていました。
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。
年末から年始にかけて大変あわただしく過ごしておりました。年末にいつもの友達家族とスキーに行き、12月31日に帰ってくる途中の高速が雪で通行止めになりました。京都のあたりで数年ぶりの大雪だったそうです。途中で下道を走り、また京都南から高速に乗り、帰宅したのですが、下道を走っているときもあちこちで渋滞に巻き込まれ、大津のコンビニで新年を迎え、帰宅したのは午前1時半という状態でした。また、次の週の連休もちょっとした用事があり、熱海まで車にて2泊3日の旅行に出ていましたので、何やらいつもとは違う忙しい新年で幕を開けました。
私の読書は、気の向くままに数冊の本を平行して読んでいるようなやり方です。家にいるとき、電車の中、仕事場での休憩の時など、それぞれの状況に合わせて、何冊かを読んでいます。最近、書斎にあった古い文庫本「人生論・幸福論」(亀井勝一朗著、新潮社版)に目がとまり、何気なく開いて見ました。これは、もう30年以上前に購入したものなので、色もそれなりについていて、字も小さめで、内容は全く覚えていないのですが、私の記憶ではもう読み終わったものと思っていました。ところが、しおり用のヒモがほんの数十頁のところで挟まっていましたので、まだ読み終わっていない状態でした。途中で飽きたのか、別の本に目移りしてそのままになったのか今となってはわかりませんが、また最初から読み始めてみました。するとなかなか奥深い内容で、いくつかの言葉が心の琴線にふれてきました。今だからこそ、そのように受け取れたのですが、もし昔だったら、おそらく何やらわけのわからない内容だったろうと思いました。実際、分けがわからないので、そのままになっていたのかもしれません。まだこの本と「邂逅」する時期ではなかったのでしょう。読んでいる途中ではありますが、たくさんの共感できる文章のうち、最近読んだ一部をそのまま抜粋してみます。
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・・・(中略)・・・
「遇いがたくして今遇うことを得たり。聞き難くして既に聞くことを得たり」(親鸞「教行信証」)
・・・(中略)・・・
論語の中に「朝(あした)に道を聞けば夕べに死すとも可なり」という有名な言葉がある。この場合、「死すとも可なり」の「可なり」に重点があるのではなく、「道を聞けば」といったときの、喜びの端的な表現として「可なり」に意味があるので、この言葉は孔子の幸福論と言っていいだろう。
「幸福とは邂逅の喜びだ。同時にそれは感謝の念の起こるところである。邂逅と謝念とは不可分のもので、そのときの喜びの言葉が、さきの親鸞の言葉に端的にあらわれている。そしてこれは彼の全生涯を貫く基調となる。彼の生涯を決定する。
・・・(中略)・・・
邂逅と謝念と、更にそこに生ずるのは信従ということである。この邂逅と謝念と信従という関係は、あらゆる宗教の根本を貫くものではあるが、しかし宗教だけでなく、人間関係の最も深い基本であることは言うまでもない。そしてここで、開眼ということが起こる。それまで見えなかったものが明らかに見えてくるということだ。同時にここに人間の転身ということが起る。人間は生涯の中に、幾度か転身を迫られて始めて人間として形成されて行くことはさきにもふれたが、この転身の動機となるものが邂逅である。そしていままで見えなかったものが明確に見えてくるということは、言葉を換えて言えば、人間としての苦悩が更に深まるということだ。多くの社会悪や自己の内面の醜悪さなどがはっきり見えてくるために、苦しみは倍加するかもしれない。だから邂逅と謝念と信従と転身は、そのまま必ずしも人間の心の安らかさを意味するものではない。むしろ逆に一層多くの不安を我々にもたらすかもしれない。しかし、幸福とはそういう不安に耐え抜く勇気だ。不安が大きければ大きいほど、苦悩が深ければ深いほど、そうある状態の中で邂逅の喜びを抱き感謝の念をもつということだ。幸福という言葉を用いるとき、まず何よりも心の安定を欲するし、たとい安定したようにみえても、常に不安定なものが前方にあらわれてくる。その不安定のものに耐えて、それを切り抜けて行く勇気そのものが幸福だと感ずるためには邂逅の謝念が前提となっていなければなるまい。・・・(中略)・・・」(「人生論・幸福論」(亀井勝一朗著、新潮社版)より)
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著者の示したかった内容とは異なるかもしれませんが、私がこの文章で自分の心に生じた考えは以下のことです。
「幸福」という言葉は人により様々な捉えかたがあると思います。咽がからからに渇いているときに出会う一杯の水や、空腹のときに出会う一杯のご飯に幸福を感じる場合もあるでしょう。ちょっとした迷いがあるときに人から助言を受けたり、本などからヒントを得たり、こういった小さな出会いや幸福感ももちろん大切ですし、たくさんの出来事の中に含まれています。しかし、上記のように「邂逅」という言葉にふさわしい出来事は少し次元を異にするような感じがします。これは、やはり精神的にかなり行き詰まっていて、まるで先が見えないような状況のときに、その打開に導かれるような人との出会いや、書物などを通しての全く新しい考え方や生き方との出会いなどです。状況は同じなのに、それを受け止める心の有り様がすっかり変わるために「苦」と感じていた感覚が軽くなり、何やら世界が輝いて見える瞬間です。そして、新たな方向性が見えてきて、また歩もうとする気力がもどっている。そんな感じでしょうか。私にも経験があります。
しかし、そのようにすべてを肯定できるように感じる心の安定も、やはり時が経過すれば、また前方に新たに不安定なものがやってくる。安定というのはある意味幻想であって、固定したものは何一つありません。必ず訪れる変化の中では、常にバランスを取りつつ歩んでいくという微妙な動きがあるのです。微妙な動きを伴いつつバランスを取っている姿が安定という状態に見えるのでしょう。そういったバランス感覚を得ているのが「幸福」な状態と言えるかもしれません。
安定していると思える状態から、また種々の変化に出会い、それに翻弄されて迷い、時には心の閉塞状態に陥っている時、見失ってしまったそのバランス感覚に再度気づかせてくれるような何らかの小さな出会いや、あるいは人生そのものに大きく影響を及ぼすような、まさに「邂逅」という瞬間があるのです。そして取り戻せたバランス状態で生じる謝念、そこから見えてくる新たな方向(開眼)と転身。人生、生きている限りはこの繰り返しを続けるのでしょうか。
いずれにしてもその時々を、いかに意識的に感応していくかが大切だと感じます。変化は常に起こっているわけで、それに対して無意識に対応していれば、何の変わり映えもない停滞した出来事として捉えてしまうかもしれません。逆にしっかりした意識をもって相対すれば、何でもない出来事の中にも人生をガラッと変えてしまうような機縁に出会うことになるかもしれません。以前、禅を行ずる人が一瞬で大悟したといういくつかの話しを読んだことがあります。そのきっかけとなるのが、師の一喝であったり、鳥の鳴き声であったり、どこかで誰かが歌う一節のフレーズであったり、様々な瞬間があるようです。それらの出来事の特殊性という訳ではなく、行ずる人の機が熟しているからかも知れませんが、やはり常に意識的に今現在を生きようとする姿勢が、その機を熟させるのに大事なのではないかと思います。
「言うは易く行うは難し」ですが、「私もかくありたい!」(どこかで聞いたセリフ…)と願っています。
(遠田弘一)
2011年02月02日
069:「邂逅(かいこう)」
posted by ..... at 22:03| Topics