2013年11月22日

075:天命を信じて人事を尽くす

 トピックの言葉は普通は「人事を尽くして天命を待つ」ということで広く知られています。しかし、私の敬愛するある先生が「人は本来大いなるものにより守られ、生かされている。また、どんな人にもその人それぞれに与えられた天命がある。そのことを信じて、人事を尽くしなさい」といういようなことを言っておられました。だから今回のタイトルのように書かせていただきました。
 さて、何故今回この言葉をトピックにしたかというと、今現在読んでいる本で、少し心に訴えかけてきた内容がありました。その本は海音寺潮五郎さんの書いた西郷隆盛 全3巻(「天命の巻」、「雲竜の巻」、「王道の巻」)です。以前より中古本で手に入れていたのですが、なにしろ少し大きめで分厚いので、簡単に持ち運びができず、なかなか読めなかったのです。最近これが電子書籍となっていることを知り、さっそくipod touchに入れて、暇を見つけては読み進めてきましたが、最後の王道の巻の西南戦争について書いてある部分で、思わず考えさせられ、読書が止まってしまったところがあります。

 西郷隆盛という人は倒幕から明治維新という偉業を成し遂げた中心人物で、そこに到るまでは非常に細やかな神経を配り緻密に事を進めていたのに西南戦争の辿った経緯が西郷隆盛にしてはあまりにもお粗末なやり方だったということが言われていて、様々な解釈があるようです。これに関しては、「まだ時期ではなかったのに自分の作った私学校の一部の生徒達の起こした暴発によって、その勢いを止めることができなくなり、情の深い西郷さんとしては若者達を見捨てることができずに、戦争の進め方も含めてその身を全く若者達に預けてしまった」という解釈があります。確か司馬遼太郎さんもそのような解釈をしていたと記憶しています。
 しかし、海音寺潮五郎さんは少し違う解釈のようです。上記の説も同時代の人で西郷さんをよく知り同情を寄せていた人の残した歌があり、これによって民衆の心理に誤って形成された西郷観の影響もあるだろうとのことを言っています。その歌とは以下のものです。

「唯身ひとつを打ち捨てて、若殿原に報いなん」(勝海舟 作)
「ぬれぎぬを乾そうともせず子どもらの心のままにまかせたる君」(副島種臣 作)

 海舟も副島も西郷の清潔にして純粋な志をよく知り、最も親しい友だったので、本人の意志ではなく、子弟らがことを起こしたのであり、子弟らを愛するあまりに一身をまかせたのであるとその行動を庇うためにこれらの歌を歌った。そのために上記のような西郷観や解釈が生まれた可能性があると説明しています。

 もちろん、始まりは一部の子弟の暴発によることは間違いないので、時期尚早であったことはあるのでしょうが、海音寺潮五郎さんは「西郷さんは天命の我にあることを信じ切っていたためにむしろ油断し、戦わずに東京まで行けると思っていて、本来その戦争に勝つための努力を怠ったのではないか」という解釈をしています。

 海音寺潮五郎さんは西郷隆盛と同郷の人で、西郷さんに対する思い入れがあるようで、様々な箇所で他の人がしている西郷さんに対する批判的な解釈をたくさんの資料から、それらを否定し、かなり心を寄せた解釈をしていることが読んでいてわかりますし、私も西郷さんを敬慕している方なので、どちらかというと前者の解釈に心を寄せていましたので、この箇所を読んだときは少し「んっ…」と思いました。

 最も解釈はどちらでもいいのです。結局の所、歴史や過去の人物の解釈は人それぞれの人生観や考え方によって違ってきますので、真実のところは誰にもわかりません。
それよりも私の心を打ち据えたのは次の内容でした。以下少し長くなりますが、抜粋します。

・・・
 イエスは神をこころみるなと言っていますが、西郷ほどの人も、ここでは天の信仰からはずれて、いつか天命をこころみる心になっていたと思わざるを得ません。天を信じ、天命にまかせるとは、努力をやめることではありません。あらんかぎりの努力をつづけ、あらんかぎりの用心をつづけ、結果を天命にまかせることです。・・・
努力を怠る天命の信仰は神を試みることで、迷蒙−つまり迷信と言ってもよいものです。
・・・

 この部分はむしろ私自身に向けられて指摘されているようでもありました。思わず読書が止まってしまった次第です。そして、心によぎったのが、トピックのタイトルの言葉であり、「私自身が出来ているのか?」という問いです。

 この問いに胸を張って答える心境には正直なところなっていません。しかし、この部分は今現在、毎日毎瞬のように心を占めている問いでもあります。
「人事を尽くす」のは何に向かってなのか?何のためなのか?
「努力」という言葉もよく使われますが、私としてはこの言葉は何やら「無理強い」している感覚があります。人が本当に心からしたいことに向かっている時、それは「努力」なのでしょうか?他の人からどう見えるかは別ですが、その人にとっては「努力」ではなく「夢中」なのではないでしょうか?もっともすぐに実現できない物事に対している場合はそこに向かうまでの努力という感覚も伴うのでしょうが・・・。

 この時、私としては今のその方向に夢中に向かってていいのだろうか?というふとした問いが起こります。つまり、その方向が善なる方向(〜すべき)であるならば、もちろんいいのでしょう。しかし、悪なる方向(〜べきでない)ならどうなのか?
善悪ということが明確になっている人にとっては、それほど問題になることはないでしょう。おそらく、その人にとってその善なる方向に向かって進んでいけばよい。精一杯の努力をしながら・・・。もし、善なる方向へ夢中に進んでいける人は、「幸いなるかなその者は天国の住人」でしょう。
 しかし、私は違うのです。その善(〜すべきである)悪(〜すべきでない)ということが自分の中では非常に曖昧になっています。全くその感覚がなくなっているわけではありませんし、当然好き嫌いもありますので、それらの曖昧なままの感覚に従って自分が取りあえず望ましいと思う方向へ歩みを進めているわけです。

 これから言うことは、別に悟った境地から言うわけではけっしてありません。今まで自分が触れてきた様々な思想や教えに影響され、私の内に形成されつつある考え方から言っているのですが、この存在の有り様というのはちょうど海と波に例えられる気がしています。次のような例えです。
 この世界、この存在様式はそもそも大いなる一つの存在(意識)によって成り立っている。というより、存在のみが唯一のものである。ちょうどこれを海に例えると、存在しているのは海そのものであり、大小様々な波がそれ自身個別に存在しているわけではない。私とかあなたとかいうように一見他者のように見える存在は波のようなものである。大波もあれば、小波もあり、渦になっているところもあれば、さざ波程度の静かな水面もある。この海の表面では様々な現象が立ち現れているが、その有り様は全くもって海に依存している。海そのものでもある。
 つまり私が善なる方向へ向かって動いているために大波となって現れているわけでは全くなく、私が悪なる方向へ向かって動いたために小波や渦になったわけでは決してないというものです。
 善悪というものは人間の小賢しい分別から生じているもので存在の中にあるわけではないのではないか?進むべき道も何もかも、大いなる存在にまったく任せる以外に何があろう?という思いにに到るというか、今現在の私は上記のような考え方に非常に共鳴しているのです。ただし、それを真実と悟ったわけではないこともわかっています。だから、大いなるものに任せている(天命に任せている)つもりになっているのかもしれません。もしかしたら、海音寺さんのいうように迷蒙なのかもしれません。
だから、あの文章に出会ったとき、我が心を射貫かれた気がして、読書が止まってしまった次第です。しかし、それでも今現在は心に自然に起こってくる方向に向かって歩みを進める以外に動きようがありません。

 禅では悟りとは心に生じる様々な問いが、その問いそのものが我とともに落ちてしまった境地を示すようです。というより我(小我)そのものが問い(迷い)のようです。
私はまだまだ「問い」だらけです。そして、問いがあるのは「苦」でもあります。

 何やらややこしい文章になってしまったかもしれません。実際このようなことは、わかる人にはわかるだろうし、わからない人にはわからないだろうと思いますし、人それぞれの考え方感じ方もあり、結論がでるわけではないので、この辺にしておきます。
幸いなるかな、問いのない人、その者は悟りの(あるいは無知の)住人なり。

(遠田弘一)
posted by ..... at 06:46| Topics