2014年11月21日

078:己(おのれ)こそ己の寄るべ

 先日、新聞に面白い記事があると妻がいい、読んでみると成る程と思える内容でした。下記に一部抜粋します(毎日新聞、11月19日朝刊の「人生相談」、回答者:白川道)。

相談:「娘は20歳で子供ができ結婚しましたが、5歳上の婿は別の女性と交際を始めました。その後「単身赴任になった」と家をでて別居状態。向こうの親からの借金も返さず行方不明です。ウソと現実逃避、離婚話もできない婿を改心させる方法はあるのでしょうか」
回答:「・・・、彼を改心させる方法はありません。そもそも改心は「させる」ものではなく、「する」ものなのです。他人に言われて改心するのは、したように見せる見せかけの改心でしかありません。・・・ある種の病といってもいいでしょう。・・・それを治すのは、もはや貴方の役割ではありません。彼自身が墜ちるところまで墜ち、自力で這い上がってこないかぎり、この病からは抜け出せないでしょう。・・・」

 実際の回答はもっと長いので、内容を正確には伝えられませんが、私が共感したのは上記の部分で、改心は「する」もので、「させる」ものではないこと。最終的には墜ちるところまで墜ちて、自分で気づく以外にないということです。

 ここで思い出したのが、学生のころに習っていた少林寺拳法の道場で、道訓として練習前に全員で唱えていた言葉があります。「道は天より生じ・・・、己こそ己の寄るべ、己を置きて誰に寄るべぞ。よく整えし己こそまこと得難き寄るべなり。・・・」というものでした。これは法句経に出てくる釈迦の教えの一説とされています。お釈迦様が亡くなるときに、「これからはあなた方は、自分自身を灯明とし、自分自身をよりどころとしなさい」と言ったとされていて、これがこのお経に含まれたのだ思います。

 本来、誰かが誰かを助けるということはできないものです。特に何か物の道理をわかるということについては・・・。理解というのは自分の中に生じるものであって、他者から与えられるものではありません。もし与えられても、それは結局自分の血や肉とはなっていないので、すぐに忘れ去られるか役立たないものでしょう。
先ほどの記事に妙に共感したのは、次元が異なるかもしれませんが、卑近な事情があるからです。

 自分は今、中学2年になる息子の勉強を手伝っています。ほっとくとゲームばかりやっているので、せめて朝の30分〜1時間くらいはきちんと勉強する習慣というものを身につけさせよう思い、朝食前の朝6時〜7時を使って勉強をみています。特に数学に関わっていますが、数学というのはただ答えを与えてもそれは当人にとっては、何の意味もなく、役立たないものです。身近で見ていると、何をどう考えているのかを少しは確認できますが、時々とんでもない方向に考えが行っていたり、こちらが簡単と思えることが、まるでわかっていなかったり、凡ミスをしていたりといろいろです。凡ミスならば指摘すれば済みますが、理解がともなっていないことになると、これを教えるのはそれほど易しいことではありません。こちらは遙か昔に通り過ぎてきたことであるし、自分の血となり、肉となっているので、よくわかるのですが、その理解を相手に生み出すのはどうやら自分の力では限界を感じることがよくあります。なるべく理解の助けになる周辺の方から説明し、かなりわかりやすく説明しているつもりですが、最終的には今ひとつ理解出来ていないときもあり、また、その時に何とか理解できたように思えてもしばらく後で同様の問題をさせても、まるで初めてみるかのような反応が返ってくるといささか気が抜けてしまいます。やはり、理解というのは自分で考え、苦労して結論に到達して、はじめて生み出され、また同じ課程を何度か繰り返すことでようやく血となり肉となるものです。そんな心境のときに見た記事でしたので、納得した次第です。

 一つ反省点としては、子供の理解が追いつかないことに度々イライラして声を荒げてしまうことです。思えば自分も同じ年頃の時に父親に教えてもらっていたことがあり、同様の状況で父が声を荒げて説明をしていたことがありました。傍らで聞いていた母が「そんなに怒って説明してもだめよ!ただ、びくびくしてしまうだけじゃない!」と父を諭していた事を思い出しました。自分も親となり、感情的になって子供に同じことをしている・・・。怒鳴ることは理解へ導きはしない。ただ、気持ちを委縮させてしまうだけである。肝に銘じなければ・・・。

 今、昔によく聞いていた敬愛する師の講話テープを通勤の車の中で聞いています。その中の話に「悟りというのはちょうど花が咲くことに例えられる。誰でも花開く種という可能性が潜んでいる。しかし、そこから無理矢理芽をださせたり、花を咲かせることはできない。せいぜいできることは土壌を整え、適切な水を注ぎ、注意深く気遣って根気よく育てていくことだ。そうすれば、春となり自然と花は咲く」という内容がありました。子供への教育もまったく同じです。その子に潜む種という可能性を信じ、愛情をもって注意を注ぎ、必要と思われる世話をしていくしかない。そして、どんな花を咲かすのかは全くもって、天に委ねるしかない。親が勝手な花を期待していれば、それは重荷になるだけである。その子の咲かせる花が咲いてくるべき花であり、親はただただ世話をするだけ。ちょっと論点がズレたかもしれませんが、そのようなことを考えさせられた今日この頃であります。

(遠田弘一)
posted by ..... at 21:09| Topics