2008年08月01日

057:母のこと

2003年の8月に「父のこと」と題して、トピックに掲載しましたが、それから5年後(今現在)、今度は「母のこと」を書く日がやってきてしまいました。母は病気(胆のう癌の転移)のため去る7月16日に東京の病院で静かに息を引き取りました(享年75歳)。1年前に胆のうにポリープが出来ていることがわかり、大きさからいって手術対象でしたので、自宅近くの病院にて手術を受け、その際に胆のう癌であることがわかりました。今年に入って、followの検査で多発性転移が認められ、6月6日に腸管への浸潤穿孔で緊急入院となり、上記の転帰を辿りました。昔から、家で一番元気で、風邪などもめったにひく人ではなかったので、もっと長生きすると漠然と思っていました。16日の夕方頃に状態が悪化しているという連絡を受け、東京へ向かいましたが、結局最後を看取ることはできませんでした。しかし、入院してから約1ヶ月の間は比較的元気にしていましたので、何度か土日に病院に泊まり、最後の数日を共に過ごせました。また、母には1年前からその病気については全て話していましたし、今年になってわかった病状についても全て話してきました。自分の病気をしっかり受け止めて、最後まで明るく過ごしていました。「自分の人生は悔いないから、大丈夫だよ」という言葉も聞いていましたので、特に思い残すことはありません。

しかし、この世に生をいただいた、恩ある両親が共にもう会えない存在になってしまい、あらためて月日の流れを感じますし、ふっとしたときに切ない思いが涌いてきます。

母は子供の頃は、田舎育ちで、両親は畑仕事で忙しいため、弟や妹をおんぶしながら、小学校へ通ったようです。そのためか、好きな勉強もきちんとできなかったと聞いています。その後、東京で働くようになり、父と出会い、父がまだ医学生の時に結婚して、嫁に入ったので、最初のころは、父の両親(私の祖父母)と兄弟(3人)の洗濯から食事の用意までしていて、子供(3人)が生まれた時は、母自身を含めて10人の家族の生活を切り盛りしていました。私の祖母は身体の弱い人で、しばしば床についていたため、ほとんど母一人で家事を担っていたと聞いています。今のように生活に便利な物など無いときですから、それはもう想像を絶する忙しさだったと思います。父の兄弟もそれぞれ独立し、私たち子供達もそれなりに手を離れるようになり、祖父と祖母も他界して、ある程度、自由がきくようになった頃に、父の大阪での勤務が始まりました。単身赴任とはいえ、母も2週間毎に東京_大阪間を行き来することになり、この生活が約20年間も続きました。元気な母だからこそ続けられたのだと思います。忙しい状況は相変わらずでしたが、常に前向きで明るい性格だったので、私は母が泣き言を言うような姿は記憶にありません。忙しさの中でも自分の好きなことを見つけては積極的にいろいろ実行して、人生を楽しんでいる人でした。

私の父はどちらかというといろいろ考え、考え抜いて、いいと思うことだけを行動に移すタイプの人でしたが、母はそれとは違い、直感ですぐにいいことを行動に表せる人でしたので、父もそのような母を尊敬していました。

母は、子供達が悪さをしたときは、すぐに手がでました(よくおしりをたたかれました)。従って、母が怒りだすと家の中を逃げ回り、それでも「1回はおしりをたたくまでは追いかけまわすよ」との一言で、あきらめて、おしりを差し出したことも懐かしく思い出されます。また、ある時は、逃げ回った末に、家の外まではだしで飛び出したこともあり、さすがにこの時はあきれていました。

また、母は面倒見もよい人でしたので、病気の時などはそばにいるだけで、非常に安心感を感じました。父は医者でしたが、病気の時に寝床に父が顔をだすより、母が顔を出してくれた方が病気が治った気になったものです。最も子供にとって母親という存在は多くの場合はそういうものかもしれません。現今はそうではないと思われる母親のことがニュースで目につきます。嘆かわしいことです。

私が高校を卒業してから、人生の道に迷い今でいうニートの生活を長く(ちょうど10年間という半端じゃない長さです)していた時もけっして見放すことなく、信頼していてくれていました。そればかりではなく、気持ちが腐ってはいけないというので、父が大阪へ行っている隙に内緒で自動車の免許まで取らせてくれました。父は勉強以外のことはあまり融通が利かない方でしたので、母のこの心配りは有難いことでした。

父は勉強や研究は熱心でしたが、日常生活の様々なことをほとんど意に介さない性格でしたので、細々としたことはすべて母の支えがあって成り立っていました。一度母が、大腿骨を骨折し、数ヶ月間大阪へいけなくなったことがありました。久しぶりに大阪に来てみると、父は敷きっぱなしの布団の下に後生大事にカビを飼っていたこともあったようです。こんな父であればこそ、自分の仕事に深く打ち込むことができたのだろうとも思います。しかし、実は父が自分の仕事に打ち込めたのは母のこの支えがあったればこそでした。内助の功といいますが、母は見えないところで、父の仕事の大きな部分(役割)を担っていたのです。

まだまだ様々な思い出がありますが、とても書ききれるものではありません。ただこの場で言っておきたいことは、母もまた、自分の天命を全うして父の元へ逝ったのだと思っています。私はこのような母の元に生まれたことを本当によかったと思っていますし、今でも感謝の思いで一杯です。

(遠田弘一)
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2008年07月01日

056:地球は寒冷化する!

洞爺湖サミットで、2050年までに温暖化ガスを半減する長期目標を世界で共有するという合意がなされたばかりの時に、意外なタイトルに驚かれるかもしれません。しかし最近、いろいろなところから地球温暖化と温暖化ガス削減政策への疑義が聞こえてきます。

まず地球は本当に温暖化しているのでしょうか。メディアは崩れいく氷河や、融ける凍土の映像ばかりこれでもかとばかり、垂れ流していますので、地球は温暖化している、このままでは地球は大変な事になってしまうと刷り込まれてしまいがちです。私もそう思い込んでいたのですが、少し疑問を持って色々な情報を集めてみますと、どうも単純に温暖化が起きているとはいい切れないと考えるようになりました。WMOによれば地球の平均気温は1998年がピークでIPCCの上昇予測とくい違ってきています。さらにもっと長いスパンで眺めれば、14世紀半ばから19世紀半ばは小氷期といわれ気温が低い時期でした。一方20世紀の半ばからはその回復期にあり上昇傾向が見られても不思議ではありません。

また地球の気温は太陽活動の影響が大きく、オーストラリア天文協会は今後20年は太陽活動が衰えていくと予想を出しました。太陽活動が衰えると、地球の気温に大きな影響を持つ雲量が増え、今後地球の平均気温は下がっていくだろうと地質学者丸山茂徳氏は予測しています。むしろ地球寒冷化を心配すべきかもしれません。実際、30年前までは地球寒冷化の危機がさかんに叫ばれていたのです。

次に地球の平均気温が上がっているとしても、CO2の排出など人為的な原因はどの程度寄与しているのでしょうか。有名なオーロラ学者赤祖父俊一氏は、ここ100年間の0.6度の温度上昇はその前の100年間の0.5度に比べて、0.1度高いだけである。現在進行中の温暖化の大部分(約5/6)は地球の自然変動であり、人為要因は1/6程度である可能性が高いと述べています。

最後にCO2の排出を抑制してどの程度の効果が期待できるのでしょうか。何と100年後に1度上がるのを106年に伸ばすのだそうです!この程度の効果のために世界中で1兆ドルものお金をつぎ込む合理性があるのでしょうか。費用対効果でいえばこれほど馬鹿げた政策はありません。なかでも日本は、すでにCO2排出の少ない優等生国であるのに、さらなるCO2排出削減を求められ、あげくの果てに排出権取引で何兆ものお金をまきあげられるのです。これでは「環境ピエロ」といわれてもしかたがありません。ピエロが笑いをとるだけならいいのですが、このピエロは国民の税金を何兆とどぶに捨てるのです。そんなお金があるのなら、少しは医療の方に回してくれといいたくなります。

環境、エコといわれると逆らいがたい最近の雰囲気ですが、メディア好みの美名の下にいったい何が進行しているのか、よーく見なければいけないと思います。

(雨宮修二) 



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2008年03月01日

055:歴史の節目

歴史の節目と仮にタイトルをつけてみましたが、歴史の節目とは人間の勝手な視点から区切りをつけたものであるので、本来そのような節目があるわけではないのでしょう。大宇宙の営みは常に滔々たる流れのままにあるようですし、大宇宙の一局所の銀河系の、そのまた局所の太陽系の、その中の一つの惑星「地球」のさらにまた一地域である日本というように視点を下ろしてくると、その歴史が数千年あるいは数万年あろうが、その大宇宙の営みからすれば、目にもとまらぬ一瞬のような気がしてきます。人間の歴史、いや地球の歴史自体が一体どれほどのものなのか?という、なにやら茫漠たる思いがよぎることも確かです。しかし、そのわずかな一点の中で黙々と営みを続ける人間の視点からすると節目を区切った方が話がしやすいことも事実であります。前置きが長くなりましたが、今回は、この節目について、少々感じることをつぶやいてみたいと思います。

今、NHKの大河ドラマは、ちょうど幕末から明治維新の頃をテーマにして、特に「天璋院篤姫」という女性にスポットをあてて描いています。私個人は、歴史の中でも戦国時代とともに明治維新前後は興味がある時代ですので、毎週楽しみに見させてもらっています。今までも断片的にこの時代の読み物は読んできましたが、また特に火が付けられてしまった感があり、その時代背景のことや人物が知りたいという気持ちが強くなっていました。ある時、古本屋で、「目で見る日本史「翔ぶが如く」と西郷隆盛」文藝春秋編(文春文庫)という書物を手に入れ、早速読んでみたら、さらに拍車が加わりました。特に、「西郷隆盛」という人に対しての関心が今は猛烈に高まっています。子供の頃、上野の動物園に何回か行ったことがありますが、その際、犬をつれた西郷さんの銅像が近くにあり、何度か見たことがありました。その時は、昔この辺に住んでいた有名な人なのだろうという印象しかありませんでした。長ずるにつれて、この人に関しての断片的な知識が入ってきて、明治維新に活躍した偉大な人だったんだという感じをもっていました。しかし、この人の生涯に関しての小説を読んだことがありませんでした。いや、一度読み始めたことがあります。それは家の物置だったか、父の書斎の奥にあったのか忘れましたが、林房雄著「西郷隆盛」という本で、読み始めてみたのですが、何故か第3巻までしかなくて、続きが読みたいと思っても、書店にありませんでした(もう絶版だったためか?)。神田の古本屋街をぶらついて、探してみたこともありましたが、うまく見つけることができませんでしたので、あきらめていました。その頃、書店で見かけたのは、海音寺潮五郎著の「西郷隆盛」でしたが、これは、かなり圧巻だったため、金銭的にも集中力にも自信がなく、「まぁ、そのうちこれを読んでみよう」などと思っているうち月日が流れ、もう既に30年弱経つのでりましょうか、今頃になって、ようやく機会が巡ってきたようです。

最近は、司馬遼太郎さんの書き遺された書籍に興味が向いていて、歴史や日本のことなどについて、著名人と対談したものを何冊か読んできていたので、その流れで、今は「翔ぶが如く」から読み始めています。その前に簡単に読めるものとして「勇のこと」津本陽著(講談社文庫)、「大久保利通」佐々木克著(講談社学術文庫)、「歴史を考える」司馬遼太郎対談集(文春文庫)、「小説SAIGOー21世紀の西郷隆盛」陽羅義光著(国書刊行会)、西郷隆盛「南洲翁遺訓」(角川文庫)他も興味深く読ませていただきました。これらを読んで思いましたが、歴史の節目には、戦国時代やその他の時代も同様ですが、本当にすごい人たちが輩出しているものです。特に明治時代としては西郷隆盛、大久保利通、吉田松陰、勝海舟、坂本龍馬、高杉晋作等々優れた人物がよくも輩出しているものだと思います。しかも、これらの人達は、勝海舟を除けば、皆いろいろな形で途中で命を失っています。まるで、この時代のある時期だけに活躍するために現れたかのように・・・。例えば、島津斉彬というその時代に最も英明で国際事情に通じていた薩摩の藩主があり、この斉彬公によって、西郷隆盛は見出され、お庭番として様々な働きをさせられ、また、薫陶を受け、「西郷隆盛」という人物が形成されるのに多大な影響を及ぼした人ですが、この斉彬公が、薩摩の改革、ひいては日本の改革に乗り出そうとしていた半ばで、夭逝してしまいます。この人がもっと長生きをしていたら、日本の歴史も変わっていたであろうし、西郷や大久保が今知っている歴史のように活躍することも無かったかもしれないとも言われています。また、坂本龍馬は、皆さんご存じのように薩長連合のために大いに活躍し、その他、様々な時代を先取りした足跡を残し、大政奉還が成った直後に刺客によって、32歳の若さで命を落とします。まるで、そのために生まれてきて、走り抜けていった感じです。不思議なものです。歴史はこのように流れてきました。この流れがあって、今の時代があります。さらにこれからどのように流れていくのかはわかりませんが・・・。

最も人間の営みというのは、偉人だけでなく、老若男女、善人、悪人、賢人、愚者とあらゆる人たちの相互関係で成り立っているものであるので、歴史には残らずとも、まったく名もない人が重要な役割を担っていることも多々あるのでしょう。というよりその時代を成り立たせるために、すべての人たちが必要不可欠な存在かもしれません。

ジグソーパズルの絵で例えれば、一つ一つのピースは曲がりくねったり、膨らんだり、途中で切れているように見えます。ちょうど、一人一人の人生が、太く短い人生、細く長い人生、もう少し活躍すれば面白く成りそうなのに、志半ばで途切れたりする人生、まったく役に立っていなさそうな人生といろいろありますが、それをきっと歴史の枠に収めるとピタッとすべてが収まるのではないのでしょうか。どれ一つとして無駄な形はなく・・・。端っこのなんでもないような背景の一つのピースでさえ、それが無ければその絵を完成させるわけにはいかないのと同じように・・・。 最もこれは、人間の営みがその行き着くところが、何らかの完成という見方に立ったものですので、本当の所はどのようなものかは、知り得ようはずもありません。そうであってほしい(なんらかの意義があってほしい)と祈るのみです。

自覚があるかないかは別として、あらゆる人にその存在理由というのがあるのかもしれませんが、それでも確かにある輝きをもって、その時代に映える人達がいます。誰が一番輝いて見えるのかは、もちろん個人個人の好みや考え方によって、違ってきます。私にとっては、明治維新の頃の人物としては、「西郷隆盛」という人が最も心に響きます。「西郷さん」(この呼び方が特にしっくりきます)の伝記の断片を目にするにつけ、心にじわ〜っと熱いものがこみ上がってきます。特に最近、このような思いが強くなっています。うれしいことにこの間、オークションで例の林房雄著「西郷隆盛」(全22巻ーこんなに圧巻だったとは初めて知りました。せいぜい7〜8巻と思っていましたので)(徳間書店)をみつけ、落札できました。ようやく忘れ去っていた長年の宿願が果たせそうで楽しみにしています。海音寺潮五郎氏の著作も含め、この機に一気にいろいろと読んでしまおうと目論んでいる今日この頃です。

(遠田弘一)
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2008年01月01日

054:新年の決意

新年明けましておめでとうございます。毎年、様々な出来事が世の中を賑わし、また個人的な生活の中にも様々な変化がやってきては過ぎ去っていきます。その場限りのこともあれば、あとあとまでしばらく引きずることもありますが、まぁ、基本的には50歩100歩で、時間と共に流れ去り、多くのことが、問題にならなくなってしまいます。こんなにも変化変滅していく中で、「動かざること山の如し」(すでに去年の話題ですが・・・)で微動だにしないものがあります。いや、というより、少しずつは変化していますが、状況としてあまり変わりがないものです。それは、気がつかないうちに蓄積している‘不要なもの’の数々です。思えば、2001年に家を建て、その際、ローンという目に見えない大きな負担がのしかかり、これもまた「動かざること山の如し」と同じ性質のもので、その大きさは、中々変化が見えてこないものです。目に見える物としては、引っ越しの際に箱詰めにしたこまごまとした物がありますが、それらの中にはまだ日の目を見ていないものもたくさんあるようです。ちょうど忙しい子育てと平行して進んできているため、ゆっくり整理整頓ができないまま、取りあえずロフトに上げてしまって、「後でゆっくり整理しよう」というおまじないと共に記憶から遠ざかり、忘れ去られてしまったものが一体どのくらいあるのかも今では定かでなくなっています。というのも、時々用があって、ロフトに上がり、捜し物をしていると全然予想外に、忘れ去ったものがひょろっと出てきたりするからです。

2003年に父が亡くなり、その遺留品がさらに追加されて、ロフトからもあふれ出し、自分の部屋にいろいろな物が進入し、増殖してきています。本当にこれらの整理整頓がライフワークになりそうな状況が生まれています。人間、目前の生活がそれなりに進んでいくとまぁなんとかやっていけるわけで、ロフトや自分の部屋を占有している多くのものは、使われないまま、過ごせているので、ほとんどが不要品であるということははっきりしています。今までも何回か引っ越しをしてますし、私は、生来貧乏性なので、特に要らないものでも、「これは、将来何かに使うかもしれない」といっては、毎回たくさんの同じ物を運び続けているわけです。しかも、それらが使われる状況など決してこないまま、毎回数年以上経過しているのに・・・。

でも最近どうも周りの空間がごちゃごちゃしてきて動きにくくなってきました。不要な物を思い切ってばっさりと捨て、周りをすっきりしたら、どんなに気持ちよいだろうと夢見ながら暮らしている毎日です。もう、これ以上戦いを避けるわけにもいかなくなりました。いよいよ私にも遅れ馳せながら、川中島第4回の決戦の時(?)がきたようです。
そこで、今年の決意は、とにかく時間が少しでもあれば、溜まりたまったそれらの物を日の当たるところに引きずり出し、今までの状況を振り返って見定め、使えることがはっきりしているものは、目の届くところに置き、そうでないものは、どんどん捨てて整理していくということです。

これは、なにも物に限らないと思います。人生の目的や目標は人によって様々に違いはあるでしょう。その目的や目標にとって、それが本当に必要なのかどうか、今一度よくよく見つめてみることは誰にとっても必要であると思います。意外と変な癖やこだわりに捕まって、目的や目標を見失い、本来必要でないことのために多くの時間や労力を漠然と費やしてしまっているかもしれません。しかもそのためにさらに心も身体も身動きがとれなくなっているかもしれません。

運動不足のせいで、数年以上前からメタボの仲間入りをしている私としては、健康の面からも不必要な脂肪ときっぱりと縁をきらなければなりません。これを機に今年は、心と身体と身の回りの様々な事物を含め、ダイエットの年にしようと思います。

(遠田弘一)
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2007年06月01日

053:我が子に教示された読書の心

最近、次男(1歳5ヶ月)がよく動き回るようになり、ちょっと眼を離すと何をしでかすかわからいため、気が気でない今日この頃です。特に椅子をはい上がり、テーブルの上にも乗ることも覚えてきました。身体がしっかりしてくるのは、うれしいことではありますが、テーブルに乗る癖をつけてしまう(乗ってもよいと思わせてしまう)と眼を離した際に危険なので、テーブルに乗ったときは、なるべく怒ったふりをして(おしりを軽くたたいて、口でも言い聞かせて)、すぐに降ろすようにしていました。ところが、この間、妻に頼まれ、次男と一緒に留守番をしていたときのことです。

1階の部屋でお茶をのみ、読書をしながら適当にあやしていましたが、2階にちょっとした用事があって少し席をはずしました。
子供用のビデオをかけていたので、子供はそれなりに遊んでいましたが、念のため、自分の座っていた椅子はテーブルから少し遠ざけて、2階へ行き、3〜4分くらいで降りてきました。子供は普通に床で遊んでいたのですが、ふとテーブルを見ると、先ほど読んでいた本のカバー(上製本にかけてある半透明の白いカバー)にしわがよっていました。近寄ってよく見るとテーブルにお茶がこぼれていて、カバーだけでなく、本の後ろの厚い表紙の5分の1くらいの領域と小口の部分で後ろの40〜50ページ分の範囲にうっすらと緑色のシミが約1mm位の幅で上から下までついていました。「やられた〜」と思い、すぐに拭き取ったのですが、時すでに遅し・・・。隣の椅子はテーブルのそばにあったので、名探偵ならずとも、「おそらくそこを伝わって、テーブルに登り、お茶をこぼして、びっくりして、すぐに降りたもの」と推測されました。

テーブルに乗ったままではなく、床に降りていたのは、普段、注意されていたので、お茶をこぼして、「えらいことしてしもた〜」というような意識が働いたのでしょうか?
もしそうなら、それはそれなりに成長している証しでもあります。

幸いなことは、テーブルから落ちなくて良かったことと、お茶もぬるくなっていたので、火傷などもせずにすんだことです。一応、テーブルの上に乗ってはいけないことを再度教えるため、少し怒ったふりをして言い聞かせた(どれだけ、伝わったのかは定かではありません・・・)のですが、同時に子供から教えられたことがありました。

その本は、「正法眼蔵新講 上」(伊福部隆彦著)というもので、この著者である伊福部隆彦氏(故人)は、もともと老子の研究者というか、「老子の道」の人とでもいうような人で、人生のある時期に天地と一体となるような、あるいは、禅家でいう所謂「見性」というような体験を持ち、その体験の後に禅の世界にも踏み出すことになり、出会ったのが、道元の「正法眼蔵」であったようです。その道の師にも出会い、正式な師弟関係はないが、親しく交流する内に、「正法眼蔵」の精神を深く体得し、その精神および老子的な無為自然のあり方を歩みながら、多くの人を教え導いた人のようです(詳しくは、ホームページ「人生道場http://ques5.cool.ne.jp/jinsei/」を参照してください)。

この著者は、父が若いころに深く影響を受けた人で、実は、20数年前に父がこの地大阪に(近畿大学東洋医学研究所の教授として)来ることになる機縁の一つにもなった方です。

そしてこの人の著書の一つで「人生手帖」という題名の古本が手元にあります。これは、私が若い頃に道に迷っていた時に父が手渡してくれたものです。最もその時分は、自分なりにいろいろと思想関係の方面に探りを入れていた頃で、別の方面で深く影響されていた思想もありましたので、あまり印象に残っていなかったですが・・・。

最近になって、伊福部隆彦氏の上記のホームページ(現在は、ご子息の伊福部高史氏が継いでおられるようです)を知り、そこで、この「正法眼蔵新講 上」を手にいれました。しばらくは、読み出す機縁がなく、そのまま書棚に入っていたのを、ようやく機縁が熟したのか、この間の留守番の時から読み始めたばかりのときに、やられてしまったのです。しかも、上製本できれいな書籍でしたので、何となく、きれいなまま読もうというような気が働いていて、ページをめくるときも跡がのこらないように気をつけながら眼を通していた、ほんの矢先の出来事でした。

子供のこのいたずらによって何に気がつかされたかというと、「書物というものは、書棚を飾っておくものではない。ましてやこのような真実あるいは人生の指南書となるような書物と接する時は、手垢がつくくらいに何度も繰り返し読み、あるいは自分の考えや感じたことを書き込み(これは父がよくやっていました)、行間を読み取って、その伝える所の真意をくみ取り、実生活に体現してゆくべきものだ」という声なき声でした。私のその本の読み方、接し方は全くもって、本末転倒している姿でした。出鼻をくじかれたわけですが、大事なことに気がつかされた、有難い出来事でした。

「天に口なし人を以て言わしむ」といいますが、まさに口の聞けない幼児の行動を以てさえ、天の教示はあるものです。良く注意してみれば、普段の日常生活に教示はあふれているのかもしれません。大事なことはそれを聞く心の耳を養うことのようです。

(遠田弘一)
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2007年04月01日

052:親ばかのつぶやきー6

今月から新しい年度が始まりました。いろいろな職場や学校などで、新入社員、新入生などがそれぞれ抱負を持ち、新たな生活が始まっていることでしょう。また、例によって私事ですが、うちの長男もいよいよ小学1年生となりました。ついこの間、幼稚園の卒園式があり、小学校の入学式がありました。出席出来たのは、日曜日に行われた卒園式のみでしたが、感慨深いものがありました。長男は、生まれてまもなく、アトピー性皮膚炎が始まり、その後、喘息もでるようになり、アトピーの痒みで泣くため、こちらも眠れない日々が続きましたし、喘息発作が深夜に出て、病院へ連れて行って吸入させたこともありました。今は、両方ともほとんど落ちついていて、特にそれで悩まされる事はなくなってきています。また、この子はしゃべるのが比較的遅かったので、「本当にしゃべることができるようになるのであろうか?」などという月並みな不安を感じたこともありましたが、それもすでに過ぎ去って久しくなります。最近のことでは、他の友達はもう自転車のコマなしを平気で乗っているのに、この子は乗れないでいる上に練習もろくにしていなかったので、「乗れるようになるのは、小学校入学後になるかな?自分も確か小学2〜3年生くらいで乗れるようになったから、まぁいいか」などと思っていたら、この2〜3週間のうちにみるみる乗れるようになってしまい、今では公園で自由に乗り回しています。
「親のいらぬ心配をよそに子供は子供なりの人生をせっせと歩んでいるのだなぁ」と改めて思わされます。
2番目の長女は、幼稚園へ行くのを嫌がりながらの1年でしたが、それなりに通い続け、もう年中さんになりました。この長女は、家で一番自己主張の強い子です。自己主張は、ややもすると我がままになりやすいので、しばしば手を焼きますが、うまく伸ばしてやれば、今の世の中で、しっかりと自分の個性を表すことができるたのもしい性格でもあります。
さて、3番目の次男ですが、今では上の2人を追いかけ回して、歩き回っています。この子は、まだ1歳と3ヶ月なので、まだ海のものとも山のものともわからないのですが、この間、玄関の外の2〜3段ある階段で、私が両手を持ったまま降ろそうとしたら、身体は後ろに引いて抵抗していました。その時は、そのまま空中遊泳で着地させ、その後、公園に連れて行きました。公園内の道路上ではちょっとおぼつかないながらもヒョコヒョコ歩いていましたが、やや傾度のある芝生の坂道にくると、ほとんど平坦に近いにも関わらず、用心深くしゃがみ込み、ハイハイのポーズで後ろ歩きを始めました。安全なところでは立ち上がり、少しでも不安なところでは、上記の歩行(?)を開始するというようなことを何度も繰り返しました。「なるほど、何もわからないようでいて、ちゃんと自分の能力を見極め(己を知り)、判断した上でそのような行動をとっているわけだ。そういう大切なことが、こんな小さな子供にも備わっているんだ」と思わず笑いながらも感心させられたわけです。しっかり、ビデオ撮影したことは、言うまでもありません。
今ちょうど、NHKの大河ドラマで、軍師(?)山本勘助を中心に「風林火山」が放映されていますが、この「速きこと風の如く・・・」で有名な孫子の他の言葉に「彼を知り己を知れば百戦殆からず」というものがあります。
この「己を知る」ということは、いかに大切なことでしょう。上記は戦に関してのことなので、意味合いは違うかもしれませんが、ソクラテスで有名なデルフォイの神殿(アポロンの神殿)に刻まれていたという言葉も「汝自身を知れ」ということですし、悟りを開き80歳で入滅するまで人々を教化していった仏陀が最後に遺した言葉も「あなた方の行く道を照らすのは私ではなく、あなた方自身に他ならない」というような意味であったということを聞いたことがあります。つまり「己を知る」ということにつながります。ある意味では、すべての人はこのこと(「己を知る」こと)のために今の人生を生きているのかもしれません。
今の世の中、己自身を知らずにいる人がいかに多く、そしてその無自覚(無意識)な行為によって世の中を乱していることか。もちろん、自分自身も例外ではなく、ふと気がつくと無意識に行動していることがよくあります。というより無意識に行動していることの方がはるかに多いようです。
己自身を知るということは、瞬々刻々の自覚であり、終わりなき道でもあると思います。
一生続く、成長の指標でもありましょう。
年度も改まり、日々瞬々をますます意識的に生きていきたいと思います。
(遠田弘一)
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2007年02月01日

051:フードファディズム

「あるある」の納豆ダイエット捏造事件では苦い思いをした人も多いのではないかと思います。私は「あるある」の捏造に驚きはしませんでしたが、スーパーの棚にまったく納豆がないのを見るとさすがに異様な光景だと感じました。

「フードファディズム(food faddism)」という言葉があります。Wikipediaでは、フードファディズムとは、「特定の食品を食べるだけですっかり健康になる、などという宣伝をそのまま信じ、バランスを欠いた偏執的な食生活をすること。あるいは、特定の食品を口に入れて病気になったなどの情報に接し、その具体的な量に関するデータも確認しないまま、それを感情的に漠然と記憶し、その食品を全く口にせず、バランスを欠いた偏執的な食生活をすること。」と明快に説明されています。さらにフードファディズムの背景として「今よりさらに健康になりたいという人々の思い、健康ブームが根底にある、とも言われる。ただし、その思いが、適切なレベルを越え半ば強迫観念化している場合があり、その強迫観念は、健康関連商品・サービスによって利益を得ている企業(マスメディア含む)の流す恣意的な情報によって生じている場合がある。」と大変納得できる説明がなされています。

漢方にも、薬は毒であり病気も毒である。毒をもって毒を制すのが治療であるとする考え方と、世の中には不老不死をもたらす物質があり、そうした薬/食品を摂取することによって健康を保つとする考え方があります。これは薬膳や健康食品などにつながる考え方です。前者は西洋医学に近い考え方で、後者は予防医学的な考え方ともいえます。前者は治療を誤れば患者は悪くなる訳で、治療の成否が目に見えやすいのに対し、後者は治療の効果が非常に長い時間をおいてからはじめて顕れてくるものなので、薬の有効性の評価が難しい欠点があります。泰の始皇帝が不老不死の薬として毒物(水銀という説がある)を摂取していたのは有名な話です。不老不死薬の探求は究極のフードファディズムといえます。

「あるある」以外にも健康バラエティー番組はたくさんあり、番組で紹介された商品がたちまち品薄になる現象は今も続いています。こうした状況は、役にもたたない食品を摂らされる消費者にも、一時的に需要が増えまたすぐに元にもどってしまう需給のジェットコースターに振り回されるメーカーにも、不幸なことです。唯一利益があるのは視聴率をかせげるTV局ですが、それも納豆ダイエットのような焼けどをしない範囲においてでしょう。

恣意的な情報に躍らされ、フードファディズムに陥らないためには、食品とはまず体を養うエネルギーであって、必要な栄養素をバランス良く過不足なく摂るのが良いという食事の基本に今一度立ち返る必要があります。そして「これだけを摂れば健康になれる」といった夢の食品はないという真実を肝に銘じて認識すべきです。その上でメーカー、マスメディアの利害に思いを致せば、健康番組の人気司会者が「これさえ食べていれば大丈夫!」といかに雄弁に唱えても、その文言は虚しく聞こえてくるはずですが。

(雨宮修二)
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2007年01月01日

050:平成19年を迎えて―走馬灯―

新年明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

さて、先日(12月の中頃)、NHKの大河ドラマが終了しました。毎回そうですが、番組が最後に近づいてくると、回想シーンが増えてきます。そして今回も回想シーンを見ながら、「知らないうちに、ちゃんと年齢を経てきたメイキャップになっているなぁ〜」と関心したわけですが、それと共にふと連想したことが、「走馬灯」ということでした。

人は、人生の最後の瞬間に自分の辿ってきた人生を走馬灯のように一瞬のうちに脳裏によみがえらせるということが言われています。これが、もれなく全員に起こる現象なのか、少数の人のみに起こる特殊な現象なのかはわかりません。もう少し別のいわゆるスピリチュアルな(その手の本で得ただけの)情報によると、自分の人生のみならず、自分と関わったすべての人の立場の見方、感じ方さえもその一瞬で経験を共にし、魂の成長につなげていくというようなことが書いてありました。これは、「人間の存在」とか「輪廻転生」ということを含めた哲学・宗教観によって意見の異なるところがあると思いまし、結局の所、自分がその瞬間に至らないとわからないことですので、真偽は決められません。しかし、顕在意識や潜在意識に刻印されたさまざまな人生経験が電気信号として脳内を一瞬に駆けめぐり、自分の人生を「走馬灯」のように再体験するようなことは十分ありそうに思えます。

その時最後の瞬間に、既に経てきたそれらの経験をどのように受け止められるか、恥じ入って、死にたくなる(?)のか、すべてをあるがままに受け入れられる心境になっているのか、は人によっていろいろでしょうが、自分としては出来れば後者でありたいと思います。そのためにはどうすればよいのか?

もう既に過ぎ去ってしまった過去についてはどうしようもありません。反省すべきところがあれば、今後の経験への糧にしていくしかありません。

さて、「今後」という言葉もなかなか問題のある言葉です。何か問題を「未来」というところに押しやってしまい、下手をすると「今」をおろそかにしてしまうかもしれません。「未来」というのは、常に「今」となって現れてきます。何かできるのは、「今」です。「今」というこの一瞬をどれだけの意識を持って感応できるかということにつきます。以前も似たようなことを書いた気がします。これは、いつからやるということではありません。年始であろうが、年末であろうが、1年365日、1日24時間、常に心しておくべきことでしょう。新年に当たり、自分自身への指針としてここに記して置きたいと思います。

(遠田弘一)
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2006年11月01日

049:天才、モーツァルト

しばらく、忙しくしていたため、トピックの更新がおろそかになっていましたが、今回はモーツァルトについて、思うことを書いてみます。

モーツァルト生誕250年ということで、最近さかんにテレビで特集番組があります。

モーツァルトの曲は街角やテレビでよく流されているためでもあると思いますが、曲名も作曲者も不明のまま自然と頭に入っていて、後で「あっ、これはモーツァルトの曲だったのか」ということが多い気がします。つまりモーツァルトの曲は自然と頭に入るようなメロディであるということでしょうか。

モーツァルトの曲は私も好きで、今ではよく聞いています。もともと、私の父がクラッシックが好きで、勉強をしながらよくレコードをかけていました。特に好きだったのがベートーベンで、私も机が一緒の部屋にあったので、小さい頃から自然とベートーベンその他のクラッシックが頭になじんでいました。また自分一人でもよくベートーベンを聴いていたように思います。しかし、小さい頃に自分でモーツァルトを意識的に聴いたような記憶はありません。よくよく考えてみると、もっと後になって、「能力開発のための音楽」のようなキャッチフレーズで、モーツァルトの曲が使われていたCDをレコードショップで見かけたのが意識的に聴くきっかけだったかもしれません。その後は、妻が妊娠した際に、「マタニティモーツァルト」なるものを買ってきたり、子供が生まれてからは、子供の感性を伸ばすためということで作られた一連のシリーズものの一つである「ベイビーモーツァルト」というビデオを買ったりして自然とモーツァルトの曲に接する機会が増えてきたように思います。今では朝食の時に必ず、モーツァルトの曲をかけて、妻や子供達と食事をしています。最も、長女に途中で曲を止められ、子供用の曲の入ったCDに変えられてしまうこともしばしばですが(親の心、子知らず・・・)。

この間も、「モーツァルト 生誕250年目の真実」というようなタイトルでテレビの特集があったので、見てみましたが、本当に天才というのはこの人のためにあるような言葉なのかなとつくづく思わされました。有名ないくつかのエピソードを挙げるなら、3才の頃に、父親が姉にピアノを教えていて、それを横で見ていただけで、すらすら弾き始めたとか、5才にして初めてメヌエットを作曲したり、また当時ローマでシスティーナ礼拝堂でしか歌うことを許されなかった「ミゼレーレ」という聖歌がありました。これは9つの音階からなり、複雑なハーモニーを伴って、約12分間合唱されるもので、当時は楽譜などを外に持ち出すこともできなかったため、何人もの音楽家がこの曲を譜面に起こそうとして挑戦したが、だれも果たすことが出来なかったものを、モーツァルトはたった1度聴いただけで、そのすべての音符を楽譜に書き写すことが出来たと言われています。今の世に残る名曲の数々も、時には人と話をしながら、頭の中に既に完成している曲をさらさらと書き写していったそうです。そしてそのほとんどが、書き直した形跡がないとも言われています。

小さい頃から示していた才能を父親が見抜き、それを花開かせようという父の並々ならぬ努力によってヨーロッパの舞台で、華々しいデビューを飾ったのに比べ、成長してからは、時代や環境の様々な状況とともにモーツァルト自身の人格的な問題(モーツァルトに関してはその音楽的なすばらしさと人格の下劣さというか非常識な振る舞いが共存していたというようなことが言われています)もあったためか、よい就職が出来ずに、貧乏な暮らしや苦節の日々に耐えなければならなかったことも多かったようです。

就職活動の目的で母親と一緒に旅に出て、旅先で母親を病気でなくしてしまうようなこともあり、さらに苦節を経た後、ウィーンでめざましく活躍する時期もあったのですが、妻が精神的な病に罹り、浪費癖もあったために、生活苦は相変わらずで、また長男や三男が、あいついで病死するという不幸を味わい、さらに最も敬愛していた父も病気で失いました。しかし、苦節の日々を過ごし、不幸に出会う毎に彼の曲もいっそう透明な美しさを帯び、深みを増していきました。

晩年(といってもかなり若いのですが・・・)に近づくと、死の影も見え隠れし、それに向き合って行くことになり、最終的にはその心に「死」さえも親しいものとして取り込んでゆくような境涯にいたったかのようです。

人は誰でもそうですが、人生の喜怒哀楽や様々な試練を経て、より成長してゆくものと思います。しかし、天才的な感性や能力を与えられた者は、その与えられたものを大きく花開かせるために、人一倍の試練を与えられるのでしょうか。モーツァルトの生涯を考えるとそんな気もしてきます。確かにのほほんとした生活から、ああいう優れた作品が生み出されるとは思われません。モーツァルトが亡くなった時は、ほんの数人の人の手によって、誰が誰だかわからないようなそこらの共同墓地に捨てられるように埋葬されたようです。

このような生涯を見ると、「天賦の才能(天才)」とともに、もれなく「極端につらい試練」というようなものが付いてくるなら、「天才はいらないかなぁ〜」なんて、ふと思ってしまいました。最も、天才無きまま既に、人生の大半を過ごしてきている私には要らざる心配のようです。

(遠田弘一)
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2006年05月01日

048:親ばかのつぶやき-5

物事にはいろいろな節目があります。大自然の移り変わりに応じた四季、人間社会の取り決めによって存在する1年の中の様々な行事、たとえば、年末年始、新学期や新たな就職、1週間のサイクル等です。また、人によってそれぞれの節目があります。誕生日もそうであろうし、引っ越しや何か新しい挑戦などいろいろありましょう。そしてその節目を超え、新しい状況や環境に入った時、希望や活力に満ちて歩んでいる人もいれば、かえって悪いと思える状況になったり、ストレスが増えたりして、疲れを感じて重い足取りで生きている人もいるかと思います。そのような場合の自分自身の癒し方あるいは気分をリフレッシュする方法として、旅に出る、部屋の配置を変える、髪型や服装を変える、おいしい物を食べる、趣味の世界を広げる等々、人それぞれでありましょう。また、何か体調の不良が原因であれば、病院で検査・治療したり、マッサージに通ったり、漢方を試してみたり(・・・そんな時は当院を利用してみてください・・・と一応、宣伝もいれておきます)、とこれも人それぞれでしょう。さて、ここからが個人的なつぶやきです。

私も、今年は節目と感じることがいろいろありました。一番大きいことは、1月末に第3子(次男)ができたことです。この少子化の時代に40台半ばにして3人目の子を持つのは、体力的にややこたえる部分もあります。しかし、4ヶ月も経ち、まるまると太ってきた我が子をあやしている時、ふっと笑顔がこぼれてくると、これはもう何よりの癒しになります。その笑顔を期待しながら、いろいろと手を変え、品を変えてあやしますが、必ずしもこちらの思惑通りにいかないので、何気ない時に思わず出くわすということになり、そういった時はこちらも思わずほほえんでしまいます。上の2人の子で既に経験してきたことではありますが、やはり赤ん坊の笑顔というのは、何度経験しても新鮮な喜びがあるものです。赤ん坊のみならず、上の子供達もそれぞれ幼稚園の年長と年少となっていますが、本当にそれぞれの性格という違いがあり、手がかかるようになってきていますが、ちょとした仕草が面白いし、かわいいものです。これからもこの子供達が3人3様としていろいろ楽しませてくれるようで、本当に有難いことです。

その他の節目としては、5月より仕事が変わったことです。この慈温堂以外にも週に2回、非常勤務医としてある病院に勤めていましたが、それが、5月より変わったことです。話としては2月頃より出ていました。以前にも「変化」という題で、書いたことですが、私は「変化」をとても良いこととしてとらえていますので、慣れてきた所から変わるときの少し面倒な気持ちはありましたが、このときも特に不安はありませんでした。むしろ、変わるべきときがきていたのだなぁという思いでした。変わってまだ間もないのですが、いろいろな意味でやはり自分にとっては、いい状況になったように感じています。今年はまた、父が亡くなって3年目という節目ですので、いろいろな変化も何かの縁を感じます。何故3年が節目かというと、これも「3」という数字が個人的に非常に縁のある数字と思っているからです。最も「3」という数字は日本人が比較的好む数字であり、ことわざなどにもよく出てくる数字ですが・・・。この節目に当たる6月(父の命日が6月13日です)ももうすぐやってきます。これを機に、また気を引き締めて、新たな決意で診療に取り組んでいきたいと思います。

(遠田弘一)
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